我が家は場所は東京と奈良で離れていたが、夫婦そろって大学では数学を専攻していた。
数学である。
ん~、正直なことを言うと、私は結果的に魔が差したのだと思う。
但し、後悔はしてない。
間違いなく大学生活は自分にとって必要な時間だった。
なくてはならない時間だった。
さらに、授業にあまり出なくても単位は取れたというのは、とても幸運だった。3年までは数学の指定された教科書は読みこんだので、一応、試験はできた。結果的に成績も悪くなかった。最終学年には不思議な先生の研究室に入ったためもあるが、毎週一冊の本を渡され、ではまた来週という感じで研究室を後にし、翌週、研究室に行くと感想を述べ、ああだこうだと話をした後、次の本を渡され、すぐ去って行くの繰り返しをしていた。恐らく、読解力と数学的ものの見方が身についたのはこの1年のおかげだ。
ということで、ほとんど大学には出没していないが、大学生活は大事な時間だった。
他のやりたいことに没頭していたので、大学生活は謳歌していた。
現代ではこういう大学生活は無理であろうし、できてしまう大学はろくでもないという大学になる。
自堕落ではあったが、大学で数学を専攻?していたので、数学にも愛着がある。
数学という言葉を聞くと、すぐに大学時代の自由きままな日常のキモチがよみがえる。
あたたかなキモチになる。
不思議だ。
ちょうど2年前の今頃、中学生にこんな質問をされた。
「数学って、なんの役に立つんですか?」
思わず、数学はココロがあたたかくなるのだよと言いそうになった。
質問の主は、数学の成績が伸び悩んでいた男子だった。
伸び悩んだというより、やっていないので、伸びないといったほうがよい。
私が接していた90分の間も毎回、嫌々なのがはっきりわかった。
別に数学だけではない。
5教科ともやっていない。
つまり、役立つかどうかは問題ではなく、勉強したくないのだ。
勉強しない理由や言い訳が欲しいのだと思った。
役に立つから勉強する。
役に立たないから勉強しない。
これは大きな間違いだが、これをわかるには時間が必要だ。
ココロが大人にならなければならない。
結果的にその男子はある時から上向きはじめた。
学ぶという行動に面白さを感じたからだというのが見ていてわかった。
数学に限らず、その教科、分野を学ぶという行動に楽しいというキモチがなければ、得意にならない。
数学で言えば、そのうち数学に楽しいというキモチが生まれる。
これが大事。
何事も、どんな嫌なことでも、楽しむココロを自ら作り出せる作法が身についているかがポイントだ。
数学はいやいやながら勉強するのは最悪だ。
やめたほうがいい。
ニガテというキモチがあるからいやいやになる。
こういう時は一緒に数学を勉強する理由を探してあげることが第一歩。
どんなにくだらなくてもよい。
数学を勉強する理由が見つかれば、楽しくできるチャンスになる。
理由が見つからなければ、受験に必要だから、あの高校に入るには最低でも○○点必要だからと「割り切る力」を伝授するのでもよい。但し、ココロが大人でないと長続きしない。
テストで結果が悪かった。
この時、一番、悲しんでいる、嫌なキモチになっているのは本人だ。
でも、もっと勉強しないさいとか。
ちゃんと復習しろ。
勉強時間が足りない。
努力しろ。
こうなると、自分はバカだと意識付けられ、どうせバカだからというキモチがひそんでしまう。自信もなくなり、無力感につつまれた状態になる。
無力感をなくすには、自信を取り戻すしかない。
方法はいろいろあるが、テストで最悪な状態の時が実は大きなチャンスのひとつだ。
さて、どうするかの一例を書き出すと次のようになる。
ゴールまでの地図を見せて、小さな成功を実感させることを着実に続ける。
ゴールに愛を感じるように少しずつキモチを変える手助けをする。
そばに応援団を配置していく。応援団は成績や結果ではなく、行動や変化をほめたたえる。
全教科がニガテなら、特定の武器(勉強であれば、得意科目をひとつだけ)を作る作戦も併用する。
適切な目標の高さのままで変化させ続ける。
応援団が決めてしまうのではなく、常に自分で自分の意志で決めたという形で進める。
何事も大事なのはココロとキモチの持ち様なのだ。